猫はブログを書かない

迷子猫探し55日間で向き合ったあれこれ。猫を飼うとは。気持ちと向き合うとは。

<迷子猫探し/No.13(閑話休題)>迷い猫を探している時にぶちあたった田舎の高齢者との価値感の壁(シルバーウィークに思うこと)

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うちにやってくる前、ノラ猫だった時代のてんちゃん。顔つきが今とは全然違います。

 

*****

 

ちょっと本筋のてんちゃん探しの話とはズレますが、捜索中にぶつかったなんともいえない問題について、お話ししたいと思います。

 

てんちゃんを迷子にしてしまった場所は、東京から車で2時間、距離にして90〜100kmくらいの場所でした。

 

ド田舎、というほどの場所ではありませんでしたが、辺り一面水田が広がり、牛舎や養豚場・養鶏場が点在する場所で、圧倒的に高齢者の多い農村地帯でした。

 

そんなエリアに住む高齢者の方とお話ししていると、「猫を捨てる」という言葉が結構な頻度で飛び出してくるので、ちょっと切なくなりました。

 

「だって、親猫が次々に生むでしょ。そんなの面倒見切れないから全部捨ててるよ」

 

と、避妊・去勢を施すという概念が皆無の状態に、こちらも二の句がつげず、ただただ呆然としてしまいました。

 

捨てる、までいかなくても、外で適当に生活させていて、戻ってこなくてもそんなもんかという飼い方をしている人は多く、猫を探しているというと、逆に目を丸くして

 

「猫なんて、いなくなるもんでしょ。探したって見つからないもんでしょ。なんでそんな無駄なことをやってるの??」

 

とビックリされるので、やりきれない気持ちになりました。

 

実際、てんちゃんを探している2ヶ月の間にも、「あの子、いなくなっちゃったんだよね」って猫に2匹ほど遭遇し、飼い主の人も一向に探す気配がないので、なんだか必死になってるこっちの方が頭おかしいんじゃないか、、、と思えてきたりもしました。

 

責めるべきは時代遅れの価値観...?!

 

もちろん、若かろうと高齢者だろうと、都会だろうと田舎だろうと、捨てる人は捨てるし、面倒見る人は面倒見ます。だから一概に「田舎の高齢者」とくくるのは乱暴かもしれません。

 

でも例えば、歴史上に存在した奴隷制度が、現代ではあり得ないこととして認識されているように、時の流れによって価値感はどんどん変化します。

 

そして悪気はないんだけど、その流れについて行けず、知る機会も得られず、結果的に現代では非常識と考えられることをしでかしてしまっている高齢者が存在するっていうのも否めない事実で、そういう人は、ヒト・モノ・情報の出入りが都会ほど激しくない田舎エリアに多く存在する気がします。

 

今回はとりあえず「てんちゃんを探し出す」ということが最優先課題だったので、そういった価値感のお年寄りと深く話してみる、みたいなことは一切しませんでしたが、もしこれが自分の祖父母だったらどうだったか、、、。

 

わたくしは残念ながら自分の祖父母は全員だいぶ前に他界してしまったので、語りたくても語れません。

 

ただ、今振り返って思うと、あれってあり得ないよな、と思う祖父母の言動はいくつか記憶にあり(残念ながらうちの祖父も猫を捨てた経験があるらしい、、、という話を小耳に挟んだことがあります...)、もし話ができるのなら、どうしてそういう行動をしたのか、当時の社会的背景と共に、まずは聞いてみたかったなという思いはたくさんあります。

 

価値感の溝って簡単に埋まるものではないし、場合によってはケンカにもなります。だからどうしても触れるのを避けてしまいがちです。

 

でももしかしたら、特に世代間の価値感の差は、ただ単にお互いに交わる機会がなくて「気がついていないだけ」という場合も多くあると思います。

 

「猫を捨てる」とおどろくほど簡単に言い放つ高齢者と対面した時に、つくづくそう感じました。

 

だからこのシルバーウィーク、もしおじいちゃんおばあちゃんがご存命の方がいらっしゃったら、ぜひ色んなお話しをしてみて欲しいと思いました。

 

アカの他人がいうのと、かわいい孫がいうのとでは、受け入れる側の気持ちも確実に違うでしょう。

 

そしてその先に、ちょっとでもいいから、捨てられてしまう猫が減る未来が待っているといいなと思いました。

(続く)

 

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